旅の足跡

ファッションデザイナーから見たタイ

ファッションデザイナーから見たタイ
日本を代表するファッションブランド、「ビギグループ」のファッションデザイナーとして、70年代後半からのDCブランドブームの立役者となった小栗壮介。
石川次郎とは、その頃からの30年以上の付き合いである。衣料の縫製技術の高さや、人件費の安さから東南アジアを行き来するようになり中でもタイに魅了され、 2000年からそれまでの拠点ロンドンから移住し、バンコクで暮らしている。石川は、夕方バンコクに到着するなり、その小栗氏と待ち合わせた。
待ち合わせた場所は、バンコクの中心を流れるチャオプラヤー川の船着場。そこらジェットボートで、小栗氏の隠れ家的なレストランのディナーへ招待するという。
バンコクは、夕方5時ともなれば、一斉に帰宅ラッシュとなり、東京も顔負けの、世界的にも類を見ない大渋滞となる。普段10分でつく距離でも、1時間かかることもざら。
そこで、夕方の移動は川を利用するのが長年バンコクで暮らす小栗氏の生活の知恵。ジェットボートを走らせやってきたのは、三島由紀夫も小説の題材にもなった 「ワット・アルン」通称“暁の寺院”の向かいにある「チャクラ・ボンセ・ビラ」。ロシアの貴族と結婚したタイの皇族が建てたビラで、宿泊も可能な小栗氏のとっておきの場所である。
タイというとイメージ的に日本より貧しい国という印象があるが、実は明確な階級社会があり、タイの富裕層は日本の金持ちとは桁違いの財産を所有し優雅な暮らしをしている。
このビラもまたそんな人種の社交場である。そこで紹介されたのが、タイ人の妻ジーアップさんだった。そして今年62歳を迎える小栗氏はその奥さんとの間に、 今年子供も生まれたという。もともと小栗氏は、ロンドンでの事業で財産を作り、タイでのんびり悠々自適の生活をするつもりだった。
しかし、彼女と知り合い、子供まで出来てしまったから、もうひと頑張りしなければならない、これから大変だと笑う。

小栗壮介
昭和21年東京神楽坂で生まれる。多摩美術大学卒業後、2年間パリへ留学。帰国後73年菊池武夫氏とともにメンズビギ設立に参加、 78年小栗氏がチーフデザイナーを勤めるブランド”バルビッシュ”を設立。90年ロンドンで”OGURI DESIGN”を発表しパリをはじめヨーロッパのファッション界で活躍。
舞台、映画の世界でも衣装担当として数多く参加。現在ファッション、インテリア、美容など多岐の分野で活躍。



ライターから見たタイ

ライターから見たタイ
フリーライタ都築響一は、70年代雑誌「ポパイ」で石川次郎の元でライターとしてキャリアをスタートし、現代美術、建築、デザイン、都市生活を中心に、独自の視点で記事を執筆し、カメラマンとしても数々の賞を受賞、やがてその才能は空間プロデューサーとして発揮され90年代「芝浦ゴールド」をはじめ伝説的な店を次々にプロデュースした。
その都築氏が、タイ・バンコクにアパートを持ち、日本とバンコクを行き来するロングステイスタイルで仕事をしていると聞き、石川がそのアパートを訪ねた。そこはアパートといっても、大使館が立ち並ぶ高級住宅街にあり、プール付きでスポーツジムもある高級アパート。しかし家賃は月6万円たらずだという。
あらゆる仕事を通して、世界中を見てきた都築氏がなぜ、タイにアパートを借りたのか?石川は訊ねた。
その理由は、まず物価の安さ、そして仕事をする上でのインフラ(ITなど)が整備されていて、安全であり、なによりアジアのハブであること。
バンコクから中国はじめアジア各国は、価格競争のおかげでかなり安くそして早く行ける。情報においても激動するアジアの情報はいち早く入手できる。アジアの中で、もはや日本はカヤの外なのだという。
そんな都築氏がそもそも、タイに来るきっかけが、寺院の取材。
タイは日本と同じ仏教国。神社仏閣は数多くタイ中に点在氏歴史的価値のある寺院も多い。しかし、都築氏が取材しているのは決して歴史ある寺院ではなく、珍寺、もしくは奇寺ともいえるもの。比較的近年に出来た寺院の中には地獄の世界を、コンクリートなどで作った珍寺が、タイの地方都市に点在し、その世界観が面白くて雑誌で連載をはじめ、現在一冊の本にまとめている。
都築氏いわく、その摩訶不思議な世界の面白さもさることながら、そこには、タイ庶民の暮らしが見えるという。
都築氏にとっては、タイの魅力は庶民の暮らし。それを観察するのがおもしろいのだという。庶民の姿にこそ本当のタイの姿が見えてくるのだと。

都築響一
1956年東京生まれ。フリー編集者として『ポパイ』『ブルータス』誌(マガジンハウス)などで現代美術、建築、デザイン、都市生活などの記事をおもに担当。93年、東京の何でもない居住空間を集めた『TOKYO STYLE』を刊行し話題に。『RODESIDE JAPAN 珍日本紀行』で第23回木村伊兵衛賞受賞。




ゲイから見たタイ

4つの谷に囲まれたブータンの聖地 「ブムタン」
タイを象徴する言葉として「マイ・ペン・ライ」というタイ語がある。
どういたしまして、大丈夫、気にしない、心配ない、など複数の意味合いを持つ言葉。
そして、あまり他人の生き方にも干渉しないタイ人の気質も現している。日本でも最近はかなりオープンになってきたとはいえ未だに差別意識がある「ゲイ」。他人の生き方に干渉しないタイは、古くからゲイに対してオープンだった。六本木の伝説の店「西の木」でボーイとして働き、石川次郎とそのときに知り合った福井ケンジ氏も、ゲイとしてこの国の暮らしやすさにはまり移住してもう20年になる。輸入業を営んでいたが最近バンコクで、日本食レストランをはじめたというので、石川は、その店を覗きに行った。店に入るとケンジ氏は5,6人の日本人相手にタイ語を教えていた。
タイで暮らす上で、避けては通れないのがタイ語の習得である。リゾート地や高級レストランなら問題ないがタイは日本と同じようにあまり英語がしゃべれる人が少ない。タイで暮らすとなるとタイ語を理解できなければかなり不自由な思いをする。しかし、タイ語は一つの言葉で6つの発音があるなど、かなり手ごわい言語である。
ケンジ氏が、教えているのはほとんどが高齢者で老後をタイで過ごそうとしている人達。バンコクにも多くの語学学校はあるが、還暦を過ぎた人には、スピードが速くてついていけないという。
そんな相談を受け、週2、3回ボランテアで自分の店を使って教えているという。
世話すきで面倒見がいいケンジ氏。一部の間では「タイに行ったらケンジを訪ねろ」ということが合言葉のようになり、これまで多くのタイにやってくる日本人の面倒をみて、それぞれの悲喜こもごもを見てきた。そして最近は特に年配の人が増えてきたという。
そんなケンジ氏に石川は訪ねた「高齢者にとってタイは本当に楽園なのか?」ケンジ氏は「タイは、たしかに物価も安いし、治安もいい、気候もいいしご飯もおいしい。それに日本と同じものがなんでもそろうから生活には困りません。でも本当の楽園にするには、タイ人とうまく付き合わなければダメ。最近は、日本人ばかりが固まっているけど、タイを理解し、タイ人を理解しなければ、絶対にここではうまくいかない。」
いろんな意味を持つ「マイペンライ」という言葉と同様に、タイ人は、いろんな面を持つ。微笑みの国、世界一のホスピタリティーの国とも言われているが、その微笑の奥をしらなければタイは理解できないという。

福井ケンジ
1957年東京生まれ。六本木伝説の店「西の木」でボーイをしていた時代に石川次郎と出会う。
25歳でアジア旅行に出かけタイが気に入り、35歳からタイに永住。バー・レストラン経営を経て、輸入雑貨の会社を経営を経て、現在バンコクで日本食レストランを経営。



女性から見たタイ

「冬の首都」として栄えたブータンの古都 「プナカ」
タイが抱える大きな問題の一つにエイズがある。
ベトナム戦争の米軍娯楽地に指定され、以後風俗産業の一大中心地であり、東南アジアのなかでもエイズ感染者の数が非常に高い。
タイ北部の古都、チェンマイ。その郊外に広がるナンプレー村。この村の一画にある「バーンロムサイ」はエイズ孤児の施設、今年で開設8年目を迎える。
この施設を運営しているのが名取美和さん。彼女はそれまで、福祉とは全く無縁な人生を送っていた。
日本とヨーロッパを行き来し、引越しを繰り返す事39回、離婚も2度経験している。父は国際的な写真家、名取洋之助。海外の情報が飛びかうような家庭で育った名取さんは16歳でドイツにデザインを学ぶために留学。若くしての外国暮らしは彼女に、大きな影響を与え、自立心、型にはまらない生き方……。常に自分を優先する生き方をしていた。
ところが50歳を越えてタイで出会ったある母子の姿が彼女の生き方を一変させる。
貧しい家の中で痩せこけ苦しむエイズの母親。その傍らで空を見つめる幼子。この母親が死んだら子供はどうなるのだろうか。誰にも見向きもされずただ死を待つだけなのか。この子達を助けたい。
その後、ホーム作りに奔走、99年ついに「バーンロムサイ」の開設に至る。
ジョルジオ アルマーニ ジャパン社の資金協力を得て、1999年12月にタイ北部のチェンマイ市郊外に開設された。
現在、3歳から15歳まで30名の子ども達が暮している。石川はまだここがスターとしたばかりの2000年頃一度訪れ、久しぶりの来訪となった。
まず石川を驚かせたのは子供たちの元気な姿だった。新しい抗HIV療法のおかげで病気の発症をかなり抑えられるようになり、2002年10月以降は誰ひとり亡くなることなく、30人全員が元気に暮らしている。
その姿は、健常な子供となんら変わらない。病気の発症を抑えれば、子どもたちには可能性と未来がある。そう確信したときから名取さんにとって大きな転換期を迎えた。

名取美和
1946 年中国・南京生まれ。16 歳でドイツに渡り、商業デザインを学ぶ。
ヨーロッパと日本を往復し、CM撮影のコーディネーター、通訳、カメラマン、西洋骨董の店の経営などで活躍していたが、1997 年にタイを訪れた折、HIV 感染者と出会ったことをきっかけに、1999 年にHIV 孤児施設「バーンロムサイ」を立ち上げる。
現在も「バーンロムサイ」の代表として、30 人の孤児たちの母親的存在として活躍中。2004 年には、21 世紀にふさわしい福祉事業に取組んでいる団体や個人を奨励する、第1 回 プルデンシャル福祉文化賞を受賞。